山盛りキャベツ
土曜、休日の朝。寝ぼけ眼を擦りながらキッチンへ入ると、姉・茜が4人がけのテーブルで皿の上に山盛りになったキャベツを睨みつけている場面に遭遇した。 「―――」 「あ、孝明。おはよ」 「おはようございます。おやすみなさい――」 「まぁまぁまぁまぁ、とりあえずお座んなさい愛しき弟♪」 腕を引かれて姉の正面に座りながら、なんだろうこれは、と寝起きで回っていない頭で考える。とりあえず姉の奇行は今に始まったことではないが、流石に朝からとなると珍しい。堤家は父も母もまたその子供達も例外なく朝に弱く、本来ならば休日のこの時間、姉はベッドの中、おきていたとしても前後不覚な状態のはずなのだが―― と。そこまで考えてから姉がパジャマでないことに気づいた。紺色のスーツとタイトスカート。出勤スタイルだ。そういえば、とあわせて昨日の夜姉が帰ってこなかったことを思い出す。 こんな時間の朝帰り。そして良く見ると確認出来る目元メイクの下の隈。 ――あー、なるほど。 孝明は遅ればせながら自身の今置かれている状況の危険度を認識した。 エマージェンシーレベル1。即時退避推奨。 「すまん、姉さん。今日俺宇宙怪獣から地球を救わなきゃいけないから忙しいんだんだ。その宇宙怪獣はTeVレベルの宇宙線により大気圏上層部で発生するマイクロブラックホールを介して別次元の宇宙から送り込まれてきた情報からその情報を運ぶ媒体自体をエネルギー源として大気組成物質によって構築される蚤大の生物なんだけれど、その恐ろしさといったら思わず抱きしめて撫でくり回したくなるアメリカンショートヘアレベルなんだよ」 「妙に凝った設定なのにちっちゃい敵ね。そんなのがどうやって地球を危機に陥れるのかとか恐ろしさの基準がどうしてヒマラヤンじゃなくてアメショなのかとか気になるところは多いけれどおいといて――眠気で回ってない頭で自身の危険を感じ取ったところまでは褒めていいけれど、気づいたのなら気づいたでもっと姉を労わろうとかそういう気持ちになってほしいなー、って思ったりするんだけどな?」 机の上に肘をついての姿勢から放たれる上目遣いの笑み。そこに宿る意味ありげな様子に多くの男が騙され、落とされてきているというのが納得できるほど魅力的な笑みで――けれど残念ながら、本性を知っている自分には通用しない。 「――というわけでおやすみなさい」 むんずっ、と立ち上がりかけた俺の襟口をテーブルの上に精一杯身を乗り出して掴んでくる姉。 「まぁ座りなさい」 「いやです」 「あんたとわたしのキス写真あんたの高校にばら撒くわよ」 「勘弁してください、っていうかむしろそれでこうむる被害あんたの方が大きいと思うのにどうしてそれが脅しの材料として通用するのか不思議なんだけれど本気なんだよねあんたはっ」 「勿論♪ これもあなたのことを愛してるが故に♪」 「ああええなんていうか確かにこういう場面では愛されているのひしひしと感じられたりしますね、ええいじめられる相手としてなわけですが」 「分かってるじゃない♪ ――ってうわちょっと待って無理やり歩ってこうとしないでっ」 俺の襟口から手を離さなかった姉は力づくで歩き去ろうとした俺の襟口を伸ばしながらテーブルの上に引き上げられる。浮き上がった足がばたばたと泳いでいるのがちょっとだけ痛快。 「こらーっ、あんたは姉をなんだと思ってるのよっ」 「敵」 「うわ断言されたっ」 「いいから離してくれ、俺はもう一度寝る。あんたがそのキャベツで何をしようとしていたのかは知らないけれど知りたくもないけれど俺は寝るっ」 「あ。これ?」 姉から視線を外して歩き去ろうとすることで興味のない意思表示をしているというのに、そんなことお構いなしに姉は続ける。 「あのさ、一昔前にさ、食物繊維がたっぷりなドリンクのCMでさ、ちょっと太めの女性二人が黙々とキャベツの千切りを食べるってのあったじゃない? 食物繊維摂取のために。その場所が定食屋さんで、次々と消費されるキャベツの千切りを補うために手がぶっ壊れるまで千切りやるってやつよ、結構面白かったから覚えてるでしょ?」 「ない。そんなものはないっ」 「それでねー、わたしねー、ちょっと嫌なことあったからねー、あのCMでの二人みたいにもりもりキャベツの千切り食べれば嫌なこと忘れて無心になれるかな、って思ったのよー。千切りキャベツ作ってる方は必死だけど食べてる方はホント無表情だったでしょ? あんなふうになれるんじゃないかーってさー」 「だから、いいから離、」 思わず振り返り、姉の顔を確認してしまって。すぐ後悔した。 姉は――別段特別なことは何も感じられないいつも通りの口調でしゃべっていた姉は。やはりなんでもない風をしっかりと構築したいつも通りの顔の上に、けれどぼろぼろ涙を流しながら片手で俺にしがみついていた。 マスカラの溶けた涙が薄く頬に軌跡を刻んで流れ落ちる。姉の顔がそんな風になっているのを見ていられず、視線を逸らして床を睨みつける。 「――涙」 「え?」 「泣いてるの気づいてねぇだろ。マスカラが流れて凄いことになってるぞ」 「え。あ――」 まったく張りのない返事にちらりと窺えば、姉はどこか気の抜けた表情で自分の目を拭っている。その動作は普段から見れば考えられないほど不器用で、目元からその色を広げたマスカラは更に姉の顔を汚す。 そうやってマスカラを拭っているのは片手で。もう片手はずっとこちらの襟口を離さないんだから――本当に、性質が悪い。 「――ああもうっ、とりあえずメイク落として来いよ、話はそれからっ」 「あ。うん。えっと、」 「待ってるよ。あんたがやたらめったらに刻んだキャベツでも食べて待ってるからいってこいっ」 「――うん」 気の抜けた表情のまま、子供みたいにこくんと頷いてから姉はキッチンを出て、洗面所に向かう。その背が廊下に消えるまで見送ってから、俺はテーブルの上に視線を移し――大皿の上に山盛りになったキャベツをげんなりと眺める。おそらくは一球分のまるまるの分量だ。 まるで実際に見たかのようにキャベツを刻む姉の姿が浮かんでくる――暗いキッチンの中、調理台だけを照らす明かりを点けて。明るさと暗さの境界で、どちら側にも立てぬままにただ無表情でざくざくとキャベツを刻んでいる。 「――あーもー」 だから、嫌だったのだ。 姉の様子からして、また誰かにフラれたのは確実で。その憂さ晴らしとしていじくられたりするならまだしも、泣かれて、落ち込まれて、なのに本当に辛い部分は自分の内に押し込んでしまう姉の姿を見せられるのは本当に困る。 そんなの見せられたって、 堤茜の弟でしかない俺は、自分の内に確かにある感情を揺さぶられて戸惑う以上のことは出来ない。許されない。 キャベツの山盛りは語りかけてくる。 どんだけ積もろうとキャベツの千切りはキャベツの千切り。それ以上にはなりえずいつだってメインの料理の付け合わせ――そんな自身の在り方を介して、は雄弁にこちらに語りかけてくる。 どれだけ姉の涙を見た回数が多くとも、慰めた回数が多くとも――お前が堤茜のの人生のメインディッシュになることは決してないんだぞ、と。 「―――」 いらついてきたのでとりあえず真上から押しつぶしてやる。しばらくそのまま押さえつけてやれば、こちらの意思通りに山は潰れたままの形になり――けれどまぁ、分量が減ったわけではなく隙間が埋まっただけだってことは分かってる。意味なんて全然ないことも分かっている。 それでも、やらずにはいられない時がある、というかなんというか。 「――食べて待ってるんじゃなかったの?」 声に振り返れば、姉が肩にかけたタオルで顔を拭きながらキッチンに戻ってきたところで。化粧が失せても十分に綺麗な姉の顔には、けれどそんな印象を汚すように目元にうっすらと隈が浮かんでいる。 失恋の跡が、明確に残っている。 そんなものが姉の顔に刻まれてしまっていることが悔しく。刻んだ男が妬ましく。 そんなこちらの感情などお構いなしに、姉は何もかもを振り払うような笑顔を浮かべると、こちらに尋ねてくる。 「ドレッシングがいい? それともソース?」 「ドレッシング――ってちょっと待て、なんかもの凄い嫌な予感が――」 にまり、と。見るものに茶目っ気たっぷりの悪意を感じさせずにはいられない笑顔を浮かべて、姉は何も答えることなく冷蔵庫からドレッシングを取り出す。 中華、シーザー、和風、ゴマ、フレンチ、イタリアン――サラダが好きで、けれど同じ味を連続して摂取することが嫌いな姉が俺に用意させたドレッシング各種が鼻歌交じりの姉の手によって取り出される。それらを器用にも指の間に挟むようにして一度に何本も持ち同時攪拌。 「中華にする? 和風にする? それとも――ぜ・ん・ぶ?」 「――お好きにどうぞ。僕は寝ます。FA」 「もしそんなことされたら、」 「――またわたし、泣くよ?」 「―――」 しょっちゅう、こんな言い分をされているのなら、 もう完全無視して自分の部屋にこもることだって出来るのに。 俺は、姉がなんだかんだで悪人にはなれない人間で。相手を感情で縛り付けるこんな言い分は、本当に弱っていて、本当に一人になったら泣いてしまう時以外使わないことを知ってしまっているから。 俺は、 「――和風で」 「よっしゃー、じゃあいってみよー♪」 「ってマテ頼むから待って混ぜないでっ!!」 こんな風に折れることしか、出来ない。 「――美味しい?」 「不味い。っていうかむしろ拙いっていうか――」 「うーわー、本っ当気持ち悪そうな顔してるねぇ――さり気なく歯磨き粉とか混ぜたのがいけなかったかなやっぱり」 「この妙な薬臭さははそれが原因かっ!?」 「大丈夫大丈夫だよー、誤って飲み込んで危険な状態になるような成分入ってたら歯磨き粉として成り立たないって♪」 「――それでも腹を下すくらいのことはするように思うんだが」 「そのくらいはご愛嬌ご愛嬌♪」 「―――」 「あ、あれ? なんか危険なオーラが――え? なんで箸にたっぷりと堤茜特性混合ドレッシングを塗りたくったキャベツを手にしながらテーブルを迂回して私の方に回ってくるのかな? ちょ、待ちなさいあんたそんなことしてただで済むと――うわっ、待ってお願いだから待ってぇっ」 子供みたいにどたばたと騒ぎながらキャベツを消費していく。しばらくは俺一人が食べていたが、そんな俺をじっと眺めていた姉も何故か口にし始め、二人して物凄く顔をしかめながらキャベツの山を崩していく。 「――なんでわたし、休日の朝っぱらから弟と向かい合って物凄い味のキャベツ食べてるのかしらね」 「自業自得って言葉知ってるか?」 「あんたが食べるの止めないからでしょ、ちょっと味見させて衝撃与えてギブアップさせて終わりのつもりだったのに。なんで意地になって食べるかなぁ……」 『付け合せでしかないキャベツ』を食べきれずに捨てるのは、『そんな自分』を肯定してしまう気がして嫌だったから――などと素直に言えるはずもなく、俺は黙り込んで姉から視線を逸らす。誤魔化すように更にキャベツを消費する勢いを早める。 応えるのは、姉のため息。 「そんな風にしてて楽しい?」 「まったく」 「それって苦しくない?」 「とっても」 「――わたしたちいつまでこんな風にいられると思う?」 唐突な質問に息が詰まって。キャベツを口に運ぶ箸が止まって。 反射的に姉の顔に向けてしまいそうになった視線をどうにか押さえつける。混乱しかかった意識をぎりぎりで保ち、箸に挟み込んだまま止まっていたキャベツを口まで運び、咀嚼し、飲み込んでから、 答えを口にする。 「姉さんが本当のメインディッシュ見つけるまでの間だろ」 「――は? メインディッシュ?」 「そうすりゃあ山盛りキャベツになんて目を向けることもなくなるだろ、ってこと」 「――むー?」 理解不能を示す声が上がるが、構わずにャベツを書き込む動作を再開する。不味いキャベツを食べ拙い気分になって拙い自分の感情を押し流す。 「でもさ、」 姉の言葉も無視してキャベツを掻き込む。ただただひたすらに掻き込んで、 「今の、わたし達のメインディッシュってキャベツだよね?」 再び、息が詰まって。キャベツを口に運ぶ箸が止まって。 今度は堪えきれず、堪えようという気すら持つことが出来ずに姉の顔に真っ直ぐ視線を合わせてしまう。姉は、なんでもないことを思いつくままに口にしただけ、という顔をしてこちらの反応をきょとんと眺めている。 「――なに? わたし何か変なこと言った?」 「あ、いや、なにも。というかいつも変なこと言ってるからどうしようもないというか」 「――もしかして喧嘩売ってるのかしら? もしそうなら心に一生残る思い出をプレゼントするよ?」 「既にいくつも刻まれている上にもう一つ刻まれたところで――すみませんごめんなさいかんべんしてください」 頭を下げるフリをしてじっと見つめてしまっていた姉の顔から視線を外す。その間に、嬉しさに緩んでしまいそうになった顔をどうにか構築しなおして再び顔を上げる。 そう、 そうだ。 確かに、今はキャベツがメインディッシュ。 今こうして姉と話している俺で。失恋のショックから救い上げたのも俺で、一番近くにいるのも俺で――とりあえずはそれでいい。そう思う。 「――孝明、今のあんたかなり変だよ、自覚してる? キャベツの食べすぎで頭がもっとおかしくなったんじゃないの?」 「食べ過ぎておかしくなるとしたらキャベツでなくあんたの作ったドレッシングでだし、というかさり気なく俺の頭が元々オカシイというって事実を捏造しないように」 「――人って真実から目を背けるものなんだよね」 「俺がオカシイなんてことになったら全国の素敵な変人さんに申し訳が立たな――あ、ごめんなさいお姉さま。本っ当に心の底からすみませんでした」 「――何にかな? どーしてそのタイミングで他ならぬわたしに謝罪するのかな?」 キャベツの山は、未だ半分ほどしか減っていない。 最低でも、このキャベツの山がなくまるまでは程度の間は、こんな俺と姉のやり取りが途切れることはないだろう。キャベツにたっぷりとかかったドレッシングにげんなりとし、同時にほんの少しだけ――感謝する。 とりあえずは、まぁ。 もうしばらく、キャベツがメインディッシュの食事を楽しもうと思った。 |